東京都美術館開館100周年記念【14回東京現展】張碧鄉〈艷冠群芳〉的器物哲學、生成美學與過剩的顯現 - 東京都美術館開館100周年記念【第14回東京現展】花の上にある、いかなる光か?——張碧鄉(チャン・ビーシアン)〈艷冠群芳(えんかんぐんほう)〉における器物の哲学、生成の美学、然後して過剰なる顕現 執筆:王穆提(ワン・ムーティ)

花の上にある、いかなる光か?——張碧鄉(チャン・ビーシアン)〈艷冠群芳(えんかんぐんほう)〉における器物の哲学、生成の美学、然後して過剰なる顕現

 

執筆:王穆提(ワン・ムーティ)

花が単なる花であることをやめ、瓶が単なる瓶であることをやめるとき。人間が花に対して抱く誤解は、美に対する誤解と酷似している。人は、花が人の心を動かす理由は、その色彩、香気、然後して咲き誇る姿にあると思い込みがちだ。まるで、美とは表面だけで起こる出来事であるかのように。然而しながら、真に長配置憶に残る花とは、往々にして最も寫実的で、最も繁華で、最も真に迫った花ではない。それは、次の一事を人間に突如として悟らせる花である。——花とは本来、單なる植物ではなく、存在が姿を現す(顕現する)ための一つの在り方なのだ、と。

張碧鄉の〈艷冠群芳〉は、まさに花を自然物の標本として描いたものではない。それは花、葉、枝、瓶、背景の色彩磁場(色場)、然後して線描の輪郭を、一気により複合的な状態へと押し進める。そこでは、花はもはや単なる花ではなく、瓶もまた単なる瓶ではない。さらに「艷(えん)」という言葉すら単なる視確的な艶麗さを超え、顕現、過剰、溢出、然後して存在の自己顕示(自我炫耀)をめぐる問いとなるのである。

画面は縦に長い高幅の構図を持ち、背景全体は夢幻的な青と赤の色場として広がっている。大面積に敷き詰められた青は、煙のようでもあり、霧のようでもあり、內なる光によって沸き立つ夜空のようでもある。その間に浮かび上がる赤は、花の影のようでもあり、光の傷痕のようであって、寒色(冷たい色)の深部から絶えず滲み出る熱を思わせる。画面の中央および上下には、瓶や器に近似したいくつかの形体が配置されている。それらは緑がかった色調で、半透明の質感を持ち、ガラス容器のようでもあり、あるいは竹の節のように切り開かれた器のようでもある。

その上や損の間には、淡い金白色や乳白色の細線によって輪郭を描かれた大量の花と葉が生い茂っている。線は重々しくはないが明瞭であり、植物の脈絡のようでもあり、発光する神経システムのようでもある。これらの線描された花葉は、交差し、牽引し合い、絡み合い、伸展する。それは瓶から生え出たようでもあり、あるいは空中を自在に自生(繁生)しているかのようでもある。それゆえ、この画の根源的な魅力は次の一点にある。すなわち、単に「瓶花(花瓶に生けられた花)」を描くのではなく、器物、植物、然後して光の境界がいかにして新しく切り開かれるかを描き出している点にある。

題名の哲学:「艷冠群芳」とは何か?

作品の題名である「艷冠群芳(えんかんぐんほう)」という四文字は、日常的な賛辞として読むならば、単に群生する花々の美しさが同類を凌駕していることを意味しているに過ぎないように思える。然而しながら、少し深く探求してみるならば、このテーマは極めて哲学的意味を帯びている。いわゆる「群芳(ぐんほう)」とは、一輪の花ではなく、花々が織り成す「世界全体」を指す。然後して「艷冠(えんかん)」とは、単にその中に參與するだけでなく、それを凌駕し、突出し、目を奪い、焦点となるような「顕現の方式」を意味している。言い換えるならば、這是單なる美に関するテーマではなく、「数多の(繁多な)ものの中から何が出現し、いかにして私たちのまなざしを強烈に要求しうるか」をめぐる問いなので何。

マルティン・ハイデッガーはかつて、芸術作品の使命とは既成の事物を複製することではなく、真理を作品の中に「自ら定置(自行設立)させる」ことにあるとした。この視点を借りるならば、〈艷冠群芳〉において真に「冠」たる(頂點に立つ)ものは、必ずしも特定の具体的な一輪の花ではない。それは「顕現そのもの」である。すなわち、繁多、重複、蔓延、然後して色彩の奔流のなかにあって、ある形態が突如として立ち上がり、発光し、見出されることを要求するあの「力」なのだ。ここでの「艷」は、それゆえ単なる花の艶やかさではなく、裝飾的な華麗さでもない。それはさらに深い「存在のイベント(事件)」である。——存在が隠蔽されることを潔しとせず、無数の形態の中で強烈に姿を現す(現身する)出來事なのだ。

這は、作品の中の花々が、なぜ特定の単一の定点を「王者」として崇めないのかという理由をも説明している。画中には、寫実的に最も目立つように描かれた唯一の「主花」は存在しない。そうではなく、画面全体において「艷」が発生しているのだ。一輪一輪の線描された花、一枚的葉、すべての緑色の器物が、同じ高張度の顕現の中へと引き込まれている。その結果、「艷冠群芳」とはもはや特定の主人公が群れを超えること外なく、むしろ群れそのものが同一の「エネルギー平面」の上で共同で発光しているかのように思わせる。這は非中心的な華麗さであり、より現代的な美学の倫理でもある。

器物の変容

この画の重要なる秘密は、あの緑色の器の形状にある。日常的なまなざしから出発するならば、人はそれを単に瓶花画における「付属品」と見なしがちである。瓶とは、単に花を受け止めるための道具に過ぎない、と。然而しながら、〈艷冠群芳〉において、瓶や器は明らかに単なる容器にとどまらない。それらは独自の体積を持ち、透明あるいは半透明の質感を持ち、リズム感のある配列を持ち、さらにして独自の「成長感」すら備えている。それらの器は植物に貫通されているようでもあり、あるいは器自体が枝葉を生やしたかのようでもある。花と器物の間には明確な主従関係は存在せず、むしろ「生成」の中にある一つの身体を互いに共有し合っている。

ハイデッガーは『物』のなかで器について議論した際、水差しや杯の本質はその材質にあるのではなく、その「容納(受け入れること)」の能力にあるとした。器物が器物たる理由は、それが一個の物体だからではなく、ある種の「保持(盛載)」と「贈与(給予)」を発生させるからである。これを本作に当てはめるならば、張碧鄉の画における器は単に花を盛り付けるだけでなく、視確的に次の一事を再確認させている。——美とは、何もない空中から咲き誇るものではない。それは常に何かに依拠し、何かを突き抜け、ある「形式」によって受け止められねばならないのだ、と。

然而しながらここにはさらに妙なる部分がある。作品における器は、決して完全に安定してはいない。それらは伝統的な瓶花図にあるような、どっしりと据え置かれた容器とは異なり、色場のなかで浮遊し、重なり合い、半透明であり、植物に浸透されているかのように見える。これにより、それらは単なる機能的な容器であることをやめ、一步進んで「哲学的媒介(メディエーション)」となる。それらは花を受け止めつつも、花によって自らも書き換えられる。構造を提供しつつも、その構造のなかで自らの明確な閉鎖性(自己完結性)を喪失していく。この角度から見れば、器物はここでの背景ではなく、美が顕現しうるための「条件」の一つなのである。 おそらくそれゆえにこそ、作品が最終的に提示しているものは「花は瓶よりも美しい」という古典的な命題ではなく、さらに複雑な問いなのである。——「もしすべての顕現が受け止めるための『形式』を必要とするならば、形式そのものもまた、顕現によって突き抜けられることで、生命を帯びて生き生きと動き出すのではないか?」という問いだ。

生成の線

私は、この作品の最も素晴らしい部分は、色彩ではなく「線」にあると言いたい。あの乳白色、淡い金色の、さながら発光するような質感を持つ線条(ライン)は、花々、葉、然後して枝蔓の輪郭を描き出す。然而しながらその描写は、伝統的な工筆画のように安定的で明確であり、輪郭のロジックに服従するようなものではない。それはむしろ、今まさに蔓延し、分枝し、互いに触手を伸ばし合っている「生命の軌跡」に近い。それらは単に既存の物体を描き出す(トレースする)のではなく、画面の上で直接「生え出てくる(長出来)」プロセスを発生させているのである。

ジル・ドゥルーズは「存在の形(フォルム)」と「生成の線(ライン)」を区別した。ドゥルーズにとって重要なのは、事物がすでに「何であるか」ではなく、それが「いかにして別のものへと変わり続けるか」である。この観点は、〈艷冠群芳〉を読み解く上で特に適している。作品における花葉は、植物学的な図譜として固定されることはない。それは常に一種の「生成」の中に置かれている。花は葉のようであり、葉は線のようであり、線は神経や水流のようでもある。瓶は器のようであり、器は一節一節上昇していく生物体のようでもある。背景は花の影のようであり、花の影は天に満ちて浮遊する色彩の雲のようでもある。こうして、画全体は一つ一つの固定されたオブジェクトによって構成されるのではなく、むしろ互いに突き抜け合う幾筋もの「生成の線」によって構成されるようになる。

これにより、作品には極めて強い「動的な存在感(ダイナミック・プレゼンス)」が宿る。画面自体は静止しているにもかかわらず、鑑賞者はそれが持続的に「発生している」のを感じる。線の細密な絡み合い、背景の色塊の浮遊、器同士の重なり合い、然後して枝葉の湾曲と伸展は、すべて画面を一新して「絶えず拡張し続ける有機的なシステム」へと変容させている。この有機性は自然主義的なものではなく、生成の美学に属するものだ。花は単に花であるだけでなく、今まさに空気になろうとしている。器物は単に器物であるだけでなく、今まさに植物になろうとしている。背景は単に背景である貼ら、今まさに花の影の向こう側になろうとしているのである。

したがって、これらの線条は決して単なる「輪郭」などではない。それらは関係の線であり、生成の線であり、浸透の線であり、然後して「逃走の線(ライン・オブ・フライト)」でもある。それらは花を単一の「美しい物(オブジェクト)」から、より開かれた存在状態へと押し進める。——花はもはや単に咲いているのではなく、画面全体の中で自らを絶えず拡散させ続けているのだ。

ニーチェ的強度とバタイユ的過剰

線が「生成」を提供するのだとすれば、色彩はこの作品において最も無視できない「強度(インテンシティ)」を提供する。青と赤の背景は、自然を寫生した空や花むら(花叢)などではない。それは強烈で、ほとんど過剰なほどの「感情の磁場(エモーショナル・フィールド)」である。ここでの青は深く、かつ明るく、さながら静夜の反転のようである。その青のなかで絶えず浮かび上がる赤は、熱のようでもあり、傷痕のようでもあって、花の影の余燼(燃え残り)を思わせる。このような色彩は調和(ハーモニー)のためにあるのではなく、画面を常に一種の高張度のなかに留め置くためにある。

ここで私はフリードリヒ・ニーチェを思い出す。ニーチェは、生命とは本質的に保守的なものではなく、「力」であり、「強度」であり、自らの形式(フォルム)を絶えず超え出ようとする衝動なのだとした。〈艷冠群芳〉における「艷」は、まさにこのニーチェ的な「生命の肯定(アファメーション)」に極めて近い。それは従順な花の美しさ端なく、暗滅することを拒み、収縮することを拒み、単に世界の周辺(エッジ)だけで生き長らえることを拒絶する「生命的張力」なのだ。この張力は単一の主体に依存せず、画面全体が一丸となって押し上げられる(推高される)ことによって達成される。花、葉、器、背景のすべてが、互いに競い合い、互いを引き立て合い、互いを増強し合う状態にある。こうして、「艷」はもはや表面的な華やかさではなく、生命力そのものの「過度なる顕現」となるのである。

さらに一歩進めれば、ジョルジュ・バタイユを引用して読み解くことすら可能だ。バタイユによる「過剰」と「耗費(消尽)」への思索は、真の華美というものが往々にして功利的なものではなく、必要性を超え出た支出(エクスぺンディチャー)なのだということを人に理解させる。日常の視点から見れば、花はこれほど多くある必要はなく、色はこれほど濃い必要はなく、線はこれほど絡み合う必要はない。然而しながら、芸術が人の心を動かす理由は、まさにこの「不必要なもの」に対する寛大さ(慷慨)にこそある。〈艷冠群芳〉には、まさにこのバタイユ的な過剰が存在する。単に花を存在させるだけでなく、花を「過度(過剰)に存在」させるのだ。単に器に受け止めさせるだけでなく、器をも発光させる。単に背景を設けるだけでなく、背景そのものを「第二の繁花(花の層)」へと変容させるのである。

したがって、この作品における「艷」を、通俗的な派手さ(艶麗さ)と誤解してはならない。それはむしろ、哲学的重量を備えた顕現の方式なのだ。——生命がいかにして、這ほど繁栄する必要のない場所においてなお頑なに繁栄し、這ほど目を奪う必要のない場所においてなお頑なに発光しうるのかという提示なのである。

現代の視覚経験とアウラの尊厳

今日、花卉(かき)の図像を語る際、最大の危険の一つは、それが極めて容易に「装飾」へと転落してしまう点にある。花はあまりにも頻繁に「見栄えが良いもの」「愉悦をもたらすもの」「視確的に親しみやすいもの」として消費されるため、鑑賞者は真に観照する間もなく、それをあらかじめ「美」という棚へと分類してしまう。張碧鄉のこの作品が一般的な装飾的花卉図像よりも一段高い次元にある理由は、まさに花を単に「受容される(消費される)」レベルに留め置かなかった點にある。彼女は花に、ある種の「代替不可能な在場性(プレゼンス)」をまとわせたのである。

ヴァルター・ベンヤミンが「アウラ」を語った際、真に人を動かす存在とは、完全に複製されることなく、即座に消費されることのない、ある種の「距離(ディスタンス)」を常に保っているとした。〈艷冠群芳〉における花々は、明るく、豊かで、熱烈でありながらも、なおこのアウラを保持している。その理由は、それらが平面化された図案ではなく、さながら「安定して命名することのできない世界」の中に現れているからだ。

  • それらは瓶花のようでありながら、静物画(スティルライフ)のようではない。
  • 庭園のようでありながら、自然の風景のようでもない。
  • 装飾のようでありながら、絶えず装飾を超え出ようとしている。
  • 識別可能(認識可能)でありながら、生成(なること)のなかで常に元のカテゴリーから逸脱していく。

このような「親しみ深くもあり、同時に見知らぬものでもある(既視感と未視感の同居する)」状態は、作品に視覚的な距離感をもたらしている。鑑賞者は一目でそれを完全に分類し尽くすことができない。まさにこの、完全に消費されず、完全に回収(収編)されない部分こそが、作品にアウラをもたらしているのだ。この角度から言えば、張碧鄉が真に処理している(扱っている)ものは花そのものではなく、「美が現代の視覚経験においていかにしてなおその尊厳を保ちうるか」という問題なのである。あらゆる図像が、瞬時に消費され、瞬時に好まれ、瞬時に忘れ去られていく現代にあって、〈艷冠群芳〉はなお、より深い「一時の立ち止まり(停頓)」を保留することに成功している。それにより、観照という行為を「新しく学び直さねばならない出来事」へと変容させているのである。

ポリフォニー(複調性)の物質的論理

作品にミクストメディア(綜合媒材)が使用されている点も、本作においては決して形式的な付け足し(注釈)ではなく、意味の根幹をなしている。なぜなら、この作品の全体的な視覚効果は、まさに「多層的な表面(マルチ・レイヤード・サーフェス)」から来ているからだ。背景のスパッタリング(噴灑)と滲み(暈染)、器物の透明な重なり(畳影)、花葉の細線による発光、然後して同じ領域内で互いに上書き(覆寫)し合う異なる色彩。これらの「層」は単なる平坦な説明ではなく、一種の「複数の現実(リアリティ)」の同時存在なのだ。

これは、パウル・クレーが遺した高名な言葉を思い起こさせる。——「芸術は可視的なものを再現するのではない。見えないものを可視化するのだ。」張碧鄉はここで、既成の花の世界を再現したのではない。彼女は、本来は見えないはずの「関係性」を可視化したのである。花と器の相互依存、色と線の相互浸透、明與暗の相互の成就(成全)、然後して形式(フォルム)と生命の間にある、支え合いながらも互いを突き抜け合う関係性。ミクストメディアは、それゆえ最もふさわしい手段となった。なぜなら、それが世界を単層的な存在としてではなく、多層的、多密度、然後して多速度において同時に顕現させることを可能にするからである。

作品はそれゆえ、一種の哲学的とも言える「複調性(ポリフォニー)」を帯びている。花は孤立した現実(リアリティ)ではなく、器も単一の現実ではなく、背景もまた空無の現実ではない。それらはそれぞれ異なる密度的存在方式を携え、この「艷」が成立しうる世界を共同で構成しているのである。

真正の「艷」とは、花の表面にあるのではなく、存在が暗滅することを拒むその意志の中にある。張碧鄉の〈艷冠群芳〉は、ミクストメディア(綜合媒材)を用いて、花卉、器物、然後して夢幻的な色場の狭間に位置する複合的な世界を構築している。画中の緑色の器の形状は、もはや単に花を受け止めるだけの容器であることをやめ、乳白色や金色の線描による花葉と互いに突き抜け合い、相互に生成し合う(互相生成)。青と赤が交織する背景は、高張度の感情磁場を構成し、画面全体に華麗さを超えた「存在論的(オントロジカル)な深度」を付與している。ハイデッガーによる『物』への理解を借りるならば、ここでの器は顕現が成立するための条件(前提)として機能している。また、ドゥルーズの生成の哲学から見るならば、線条は単なる輪郭線ではなく、花と世界が互いに浸透し合う生命の軌跡なのだ。総じて、〈艷冠群芳〉は単に咲き誇る花々の盛大さを展示するだけでなく、「艷」という概念を、顕現、過剰、然後して生命が頑なに暗滅を拒むプロセスをめぐる、一つの深遠な哲学的命題へと高めた成熟の傑作である。