現代科學與法相唯識之因明論理 王穆提 - 『成唯識論』の聖教量を引きて、現代科学の客難を破す

『成唯識論』の聖教量を引きて、現代科学の客難を破す

【論に曰く】:前には因明三支比量をもって、客難の宇宙、大脳、量子等の説を総破せり。しかし理に経論の聖言の証拠なからば、虚妄の推演と成らんことを恐る。今まさに大唐の三蔵たる玄奘法師が揉訳(じゅうやく)し、窺基大師が註解せし『成唯識論』の本典の内文を直接引き、聖教量をもって印となし、法相唯識の枢紐の真理が、決して後人の牽強附会にあらざることを逐一証成すべし。
 
【述して曰く】:仁者の真を求むる御心、至って深切でございます。すでに『成唯識論』の原文を引いて証と為さんと欲される以上、我らは直ちに大唐慈恩宗の最高法宝を開かん。我これを三門に分け、先ず『成唯識論』の原文(【論に曰く】)を陳(の)べ、次に唯識法相の理をもって現代科学の客難を破解(【述して曰く】)いたしましょう。一字一句、皆大唐の法式に依り、近代の俗語を交えずお伝え申し上げます。
 

第一門:引文して「宇宙化石の難」を証破す(共業が先期に器界を変現することを明かす)

【客難再叙】:宇宙の百三十八億年、太古の化石は人類より早い。人類の心識なき時、これら星系と地質は何に憑りて変現せしや。
 
【論に曰く】:『成唯識論』巻二に云く:
 
「異熟識は、共相種子の成熟する力に由るが故に、色等の器世間の相に変似す、即ち外の大種および所造の色なり。諸の有情の変ずるところ各別なりといえども、相は相似たり。処所に異なきこと、多くの灯明が各々遍く一つに似るが如し。誰の異熟識がこの相に変ずるや。有義(ある義に言う):一切なり。それ所以はいかん。契経に『一切の有情の業の増上力、共に起こすところなるが故に』と説くが如し。」
 
【述して曰く】:文を引いて理を証し、客難の迷いを破す:
 
この段の経文は、正に玄奘大師が「心識なくば宇宙なし」の疑いを破る最強の鉄証なり。
 
一、「一切の有情の業の増上力、共に起こすところなるが故に」:論主は、器世間(客観宇宙)は決して「ただ現在地球に生まるる人類」のみの変現にあらず、十方三世の「一切の有情」の共業の同造なることを明言せり。太古の時代に人類なしといえども、太古の傍生(恐竜等の微細の有情)ありて、その阿頼耶識も同じく当時の器界を変現せり。
 
二、業力による先期構築の理:論中に「共相種子の成熟する力に由るが故に」と言うは、種子の成熟は因果相続の流れなり。十方の有情にすでに未来に地球に投生する共業ある以上、その阿頼耶識は必ずこの「業の増上力」に依り、因果の物理軌跡に符合する宇宙の星光と地層の化石を予め変現して、未来の衆生が報いを受くる処所(器世間相)となすべし。
 
是の故に、化石の古きこと、星光の遙かなることは、恰も「共相種子」が宇宙を変現する際、その因果の理則が精密にして誤りなきことを証実するものなり。科学者は化石を見て、心を離れた独立の物質なりと以為(おもえ)ども、唯識宗が化石を見るは、無始よりの衆生の共業の遺跡を見るなり。
 

第二門:引文して「神経大脳の難」を証破す(勝義根は識にあらず、本識が恒常執受することを明かす)

【客難再叙】:大脳神経の放電が意識を生む。麻酔や脳の損傷により意識は断滅す。これは物質が心を生む証であり、阿頼耶識は虚妄なり。
 
【論に曰く】:『成唯識論』巻三ならびに巻四に云く:
 
巻三に云く:「然るに阿頼耶識は、無心位の中に至るまでも、また恒に有根身を執受す。……若し此の識なくば、無心位の中に至るまで、身は死屍の如くなるべきに、便ち大過と成る。」
 
巻四に云く:「眼等の五根と謂うは、即ち是れ五識の所依の勝義根なり。……此の五色根は、必ず意識と同じく俱時に転ずべし。」
 
巻二に云く:「此の本識と謂うは、無始の時より来、一類相続き、常に間断なし……命終に至るまで、種を持ちて散ぜず。」
 
【述して曰く】:文を引いて理を証し、客難の迷いを破す:
 
大唐唯識学における「大脳(色根)」と「心識(本識)」の分野の境界線は極めて厳格であり、決して混淆せず。
 
一、大脳は「勝義根」なり、心識の源にはあらず:医学の観測するところの大脳神経は、論中において精確に「勝義根(微細なる物質神経)」と定義せらる。それは前六識が運作する時に必ず依附すべき「ハードウェアたる媒介(所依)」に過ぎず、その本質は依然として物質(色法)なり。ゆえに「必ず意識と同じく俱時に転ずべし」と言い、大脳が損傷せば、前六識はすなわち障害を生ず。
 
二、無心位の中においても、本識は恒に存す:客難は麻酔が意識を断つと謂う。論主は千年前において早くもこの疑いを破せり。全身麻酔は唯識学の「無心位(悶絶あるいは極重睡眠)」に等し。この時、前六識(表層意識)は固より断滅すといえども、「阿頼耶識は、無心位の中に至るまでも、また恒に有根身を執受す」。
 
もし医学の言うごとく、物質が心を生み、麻酔が心を断つならば、心識が全滅する際、肉身はいかんぞ腐壊せざるや。前世の記憶と業力はいかんぞ喪失せざるや。論主は「命終に至るまで、種を持ちて散ぜず」と明言せり。ただ第八本識のみが深き隠れ処にて「恒に有根身を執受し」、命根を間断なからしめるなり。麻酔が退き(勝義根が機能を回復す)、本識中の種子が再び現行を起こすを待つのみ。科学はただ前六識の生滅を知るのみにて、第八識の恒転に達せず、遂に「大脳が意識を生む」という謬誤(びゅうご)に至れり。
 

第三門:引文して「量子重ね合わせの難」を証破す(種子は機能であり、相見は同時に生ずることを明かす)

【客難再叙】:量子力学は、微観粒子が未だ観察されざる時は皆「重ね合わせ状態の確率波」に属すと言う。宇宙の基底は客観的な数学関数であり、業力心識に関わらず。
 
【論に曰く】:『成唯識論』巻二ならびに巻七に云く:
 
巻二に云く:「此の中に何の法をか種子と名づくる。本識中の自果を親生する機能の差別と謂うなり。……此れは唯だ本識および彼に至る時に、果と俱に有るが故なり。」
 
巻七に云く:「外境は情に随いて施設せられ、皆有るにあらず識の如し。内識は必ず因縁に依りて生じ、無きにあらず幻の如し。」
 
巻二にまた云く:「一切の心・心所は、熏習力に由りて二分を所変し、自ら体より生ず。見・相の二分は、創めて別体なし。」
 
【述して曰く】:文を引いて理を証し、客難の迷いを破す:
 
量子物理の触れる極微の世界は、恰も唯識宗の「種子」と「四分」の奥義と完璧に契合す。
 
一、確率波とはすなわち「機能の差別」なり:客難は確率波を客観的在在なりと為す。論主は明言せり、万法の本源は「種子」であり、かつ種子は決して実体のある顆粒にあらず、「本識中の自果を親生する機能の差別」なりと。既に「機能」と云うからには、すなわち潜在的なエネルギーと確率であり、いまだ発動(現行を起こす)せざる際においては、無形無相にして、定型の座標なし。これこそ量子力学の所謂「重ね合わせ状態」なり。
 
二、波束の収縮とはすなわち「見・相の二分は、創めて別体なし」なり:粒子はいかんぞ観察の瞬間にその状態を確立するや。論主云く「見・相の二分は、創めて別体なし」。主観的観測者(見分)が一度介入するや、潜在的機能(種子)は瞬時に確定した客体(相分)へと転変す。見分と相分は本識より同時に生起するものであり、観察者を離れて独立存在する客観粒子は決して無し。
 
三、無きにあらず幻の如く、有るにあらず識の如し:量子力学は物質が堅固不変なるにあらざるを証実せり。論主は早くに云えり「外境は情に随いて施設せられ、皆有るにあらず識の如し」。客観の物理世界は、皆堅固たる実体なし。然るに「内識は必ず因縁に依りて生じ、無きにあらず幻の如し」。この業力因縁によりて推動せられる幻境には、確たる作用の法則あり。量子力学の不確定性と観察者効果は、実に大唐法相唯識宗の「万法唯識」に対する最良の物理学の明証でございます。
 

総判の結語

【論に曰く】:「一切種の識に由り、是くの如く是くの如く変ず。展転力(てんでんりき)を以ての故に、彼々の分別生ず。」
 
【述して曰く】:仁者よ、今『成唯識論』の聖教の原文を印となし、現代の宇宙学、神経医学、量子力学と比対すれば、その理は鑿々(さくさく)として、いささかも違(たが)うことなし。
 
大唐の玄奘、窺基大師が教えを立てし当初、現代の計器の利なしといえども、無漏の智をもって宇宙と心識の極微の深処を観照し、建構せし「阿頼耶識本体、種子生現行、勝義根非識、相見同源」の理は、なんと千三百年後の尖端科学を、完璧にその中に統摂し得るものなり。
 
科学が物の極みを窮むれば、終には不確定の確率と観察者の牽渉(けんしょう)に帰す。唯識が心の奥義を明かすは、すなわちこの確率が業力の種子であり、観察者が見分の妄執なることを直指するなり。
 
もしこの聖教量の中に深き信解を生じ、現代唯物の表象に惑わされざるならば、これぞ真に大乗唯識の正見を具えたる利根(りこん)の行者(ぎょうじゃ)に他なりません。